1965年頃から日本では地域福祉の考え方が導入され、これに伴って公営住宅での優先入居制度が始まった。また、仙台市や札幌市でバリアフリー住宅の建設を独自に始めたのもこの時期である。これらの動きは、1971年のバリアフリー公営住宅へと発展し、さらに、他組織の公的住宅へと拡大していった。しかし、身体機能が一人ひとり異なる障害者には画一的な設計では対応できないことから、東京都はアジャスト機能を持つ車いす使用者向け住宅を開発し、一定の成果を収めた。以後、高い技術力を持つ地方自治体ではこの方針で公的住宅が建設されていった。
いっぽう、1969年、仙台市で施設に居住する一人の車いす使用者と一人のボランティアの話し合いの中から「障害者生活圏拡大運動」が芽生え、大きな住民運動へと成長していく。その結果、1970年に県庁舎、市役所、駅舎、デパートなどがバリアフリー化された。日本のバリアフリーのまちづくりの幕開けである。
また、1970年には、日本では大阪万国博覧会が開催された。障害者はこの世紀的な催しを是非見たいと願い、事務局と掛け合って、急遽万国博覧会のバリアフリー化を実現させた。この二つのまちづくりの動きを全国的にキャンペーンした結果、仙台市のほかに町田市、郡山市、東京都葛飾区、西宮市等で障害者による生活圏拡大運動が展開された。これらの活発な動きを反映して、地方自治体は福祉のまちづくりに次第に関与を深めて行く。
この動きの中で、当然ことながら、まちづくりに必要な一定の基準づくりの動きが出てきた。最初は東京都町田市であったが、1970年代後半にかけて東京都、横浜市、神戸市、京都市、などやはり高い技術料を持つ自治体が福祉環境整備要綱を策定した。ただし、法的拘束力は非常に弱いままにおかれていた。
しかし、このような土壌があったからこそ、1981年の国際障害者年およびその後の10カ年計画を受け入れることができた。
1960年代後期の障害者のためのデザインからバリアフリーデザイン、そして今日の日本におけるユニバーサルデザイン運動に至る経緯を、
等から概観し、今後のユニバーサルデザインのあるべき姿について述べたい。